特集 ストレス社会

“続切れる子供たち”

05.7.10発信

 切れる子供の原因は、大人にあり、とりわけ親の影響が大きいと前回指摘した。しかし責任を親だけにしてしまうと解決法がないし、それは本質からも間違っている。

 子供の問題行動の由来は親の歪み、不自然さ、醜さからがほとんどである。具体的には喜びに共感できない親。たとえば子供が喜んで親に報告しているのに『それって成績に関係あるの?』とか答える親。子供が喜んで報告しているのだから、せめて一緒に喜んで下さい。そう由来は、親だが責任は大人社会なのだ。

 なぜか。大人の精神構造は社会構造から規定されるし莫大な影響を受けるので。それに問題のある親があるとして、家族があるとして、それをフォローするのが社会だからだ。それができなかったら社会じゃない。できなかったら、犯罪だらけになってその社会は滅びてしまう。社会は無数の無私の愛で成り立っているという側面がある。これがなかったら動物と同じで弱肉強食になってしまう。人間がなぜ他の動物と違ってこれだけ発展したかといったら無私の愛があったからだ。

 つまり問題のある家族をフォローするのが、人間社会の自然であり責任なのだ。もういちど言おう。これがなかったら犯罪だらけになって人間社会は滅びてしまうし、それは不自然な事なのだ。無私の愛こそ自然なのだ。なぜか。無私の愛ほど気持ちの良いものは無いからだ。利益や打算のない思いやりのある行動は、人間に大きな喜びを与えてくれる。この喜びは、他では感じることの出来ない質の高いものだ。これは人間に誇りをもたらす喜びだ。その誇りが人間の心を成長させる。つまり無私の愛は、社会の機能の大きな一部だ。現代これが機能不全を起こしている事が切れる子供の根底になっているのでは、ないだろうか。

 社会の無私の愛を根底としたフォロー機能が不全をおこしているのではないか。
 そこで切れる子供の対処法として、その機能回復が必要だと考えられる。
 社会は、我々一人ひとりが構成して成り立っている。一人ひとりが変われば社会も変わる。
 私は、その変化のキーポイントとして大人自身が自分を知ることを挙げたい。親自身が己を知ることを挙げたい。

 よく子供の問題行動の背景にコミュニケーション不足があると言われて久しい。しかしなかなかコミュニケーションが成立しない。愛情不足とも言われて久しい。しかし事態は悪化する一方だ。コミュニケーションや愛情の本質はあまり語られていない。それは自分を知ることである。自分を知って自分の心の窓を開いていくことが本質である。
これをしないでコミュニケーションをとろうとしても無理である。これをしないで愛情をかけても子供を苦しめるだけである。

 自分が解らないでは、他者はなおさら解らない。自分が解らないでは、愛はだせない。基準がないから。猫かわいがりや溺愛は、愛ではない。自分が解らないのに、子供の将来が解るはずがない。

 自分を知る事とは具体的には自分の醜さを知る事である。これは大変難しい作業だ。
 自分の醜さを己で理解するのは、白己否定する事であるから大変苦しい。しかも自分の醜さのルーツはたいてい親由来であるから、自分信じる親の愛まで否定する事になるからとても辛い。しかしこの作業なしでは、子供を愛することは出来ない。自分が親から受け継いだ醜さを見つめ直さないかぎり、自分は子供に自分が受けた傷つき以上の醜さで子供に接している。

 申し訳ないが子供が不登校、拒食、ひどいアトピーなど鬱をベースにした症状を呈したらそれは親の醜さからだ。子供や学校に問題はない。親の醜さが子供を傷つけたのだ。
 この醜さは暴力など目に見える形で現れることもあるがほとんどが、なにげない言葉、表情、しぐさで子供をズタズタにしていくから質が悪い。しかも一見教育熱心だったり、子供の面倒みがよさそうに見えるので質が悪い。醜さのほとんどは自分の親由来である。個人的に悪い訳では無い。

 教育は、子供に何か教える事ではない。自分の醜さと闘う事である。その自分と闘う後ろ姿こそ教育である。なぜなら我々大人が、子供と較べて人格的になにか教えるほど優れているとは言えないからである。子供をたたいたり説教したり出来ないはずだ。我々大人が、子供に伝えるとしたら自分の醜さと闘う後ろ姿のみである。

 我々の愛も子供から否定されることになるだろう。それは子供が成長している立派な証拠である。私の愛が我が子から否定されたら私はうれしい。子供が価値観を確立しつつあるから。子供が成長しているから。子供は子供の人生であり、私は私の人生だから。子供の成長は、私の喜びであるがそれは、数ある私の喜びのひとつだ。私の喜びは自分自身の成長であり楽しみであり豊かさだ。子供は数ある生きがいのなかのひとつだ。子供の人格を考えれば子供が生きがいなどと言ってはいけない。子供はいい迷惑だ。
 我々ひとりひとりが成長し地域の中で子供に暖かい視線を送っていく以外ない。
自分が自分の醜さと闘い、また自分自身の喜びを追求して人間的に成熟していく事が、切れる子供に対する最大の対処法である。

 自己実現していないつまり成熟していない自己を知らない大人の愛は、どんなに愛しても子供を苦しめるだけである。他人を愛することは、自分を知ることである。成熟することである。自己実現することである。そうすれば自然と愛することが出来る。イライラしなく子供に適切な状況判断で対応することが出来る。
 切れる子供は子供の問題ではない。我々大人の醜さの問題なのである。であるから自分の問題なのである。大人よもっともっと自分を見つめよう。孤独の中で自分を見つめよう。自分について考えよう。自分の醜さを直視しよう。大人ひとりひとりの内面が改善していけば切れる子供も改善していくはずだ。

 そして大人自身が自己実現するという事は大人自身が生き易くなる。大人自身が機嫌が良くなる。イライラしないで楽しくなる。世界が変わって見えてくる。感動し易くなる。
 大人が楽しければ子供もまた楽しくなる。これは当たり前の事なのだ。なのにイライラ不機嫌な大人のなんと多い事か。これでは子供だって嫌になる。不機嫌な大人はそれだけで暴力だ。自己実現する以外、不機嫌を直す方法はない。自分の醜さを見つめる以外方法はない。それは子供だけでなく大人自身も生きやすくする唯一の道である。


“切れる子供たち”

最近中学生になっても、先生に些細なことで注意されただけで怒り出し、
物を壊したりといった『切れる子供』が問題になっている。

01.7.1発信

切れる子供。つまりすぐ怒る子供と言い換えたほうが理解しやすいと思います。
どうして中学生にもなって、些細なことですぐ怒り出すのか?
それは、些細なことというのが怒る原因ではなく、引き金に過ぎないからです。
つまり怒りの内容と引き金になった原因とは違うということです。
これこそが『すぐ切れる人』を理解するための一つ目のキーポイントです


実は『すぐ切れる人』というのは、もうすでに心の中に怒りがあるのです。
その怒りが何らかのきっかけで、表に噴出してくるのです。
ですから本人は『チョッとした事』で怒っている訳ではなく、その怒りの中身はもともと心にあるのです。
もともとイライラした心があり、「切れる寸前」であったり、怒りのためもうすでに「切れている心理状態」だったりするので、噴出した時には凄まじいのです。


では、なぜもともと心に怒りがあるのでしょうか?
そしてその怒りは一体どこから来たのでしょうか?
その怒りのルーツのほとんどが『親から』なのです。
親が自分のイライラを子供に伝染させているのです。自分の怒りを発散するために子供に八つ当たりをしたりする事が、子供たちの怒りの源泉となってしまうのです。


親が自己実現しておらず心理的に未成熟だと、チョッとした事で親自身が不機嫌になったりイライラした時に、弱者である子供に、八つ当たりをしてしまうのです。(これはいじめのルーツであったりもします)これでは子供もたまったものではありません。
また、親自身が未成熟であると、子供の喜びに共感できなくなってしまうこともあります。
子供が喜びを持ち帰ると、共感するどころかかえって傷つけてしまったり、怒りをぶつけてしまったりと、云われ無き怒りを、子供は受けてしまうのです。
当然子供は、その怒りを心の中に蓄積してしまい『切れる心理状態』になって行ってしまうのです。


最近、スーパーなどで幼い子供にとげとげしい態度を取る母親と、出会うことがあります。
自分の子供に対して、「テメーに泣かれると、こっちがイライラするんだよ!」とか「とっとと選べよ!」更には、「あのオヤジに、邪魔だって言ってやりな!」などとショッキングな言葉を投げつけているのです。
また、たいして悪いことをしてもいないのに子供の頭をいきなり叩いたり、タバコをくわえて、子供を自動車に乗せて運転し、そのタバコを窓からポイ!と捨ててみたりと、私には信じられないような光景を日常的に見かけるのです。
子供が切れやすくなったり、不登校、過食拒食、更には性に走ったりするのは、当然の反応と思えるのです。


『子供のさまざまな問題行動のルーツは100%親からである!』
これが2つ目のキーポイントです。
ですから、自分の子供が問題行動を起こし始めたら、まず原因は自分にあるのではないかと、発想したほうが解決が早いと思います。最初から子供や学校に原因を求めたりしないほうがよいかと思います。
ここで注意を要するのは、以外にも怒りをもった親が、表面的には教育熱心であったり、学校の先生であったり、PTAの役員などをしていることもよくあるのです。
宮崎勤のような犯罪者が出ると、「親はごく普通の教育熱心な中流家庭なのにどうして?」などという表現が世間や新聞に必ず出ています。これなど、怒りをもった親を見る視点が欠落しているのです。
怒りをもった親の特徴は、外見は普通か、それ以上なので、厄介なのです。外見でわかるのは、むしろ軽症です。
怒りの為、我が子を愛せない反動は、意識的にも無意識的にも外見は普通以上に親切的に表現されます。
自分の愛の無さをカモフラージュするかのように.............。


子供は鋭く直感的に愛の無さを見抜いてしまいます。子供は愛情がないと言語化できなくても、「うちは何かヘンだぞ」と、見抜いてしまいます。
そして親の態度が子供に二重のメッセージを発信することになり、子供はどちらが本当なのかと混乱してしまい自我が引き裂かれてしまうのです。
そして更なる悲劇は、そのような親(怒りをもった親)を持った子供は、自分は親からたっぷりと愛されたと強引に思うようになります。


親から愛されないことは、とても辛いことであり、子供にとって、正視できることではありません。ですから「うちはなんかヘン」と思いながらも親の表面だけを見て自分は、とても愛されていると、強引に想うようになるのです。


このように真実を見る目がゆがんでしまうと日常生活から喜びや感動が消えてしまいます。
人は、事実のみで生きているから、幻からは感動を得ることはできません。
そのような子供は、表情も乏しくなり、人とのコミュニケーションも取れなくなってしまいます。
何故でしょう....。


人は事実や真実のみで生きているので、そこから一度目を離してしまうと、全てが狂ってしまうのです。
事実から感動したくても、事実を見ると過去の辛い現実が一度に襲ってくるので事実を見ることができなくなってしまう。
これが進行すると、50歳を過ぎても、人から聞かれもしないのに自分は親からたっぷりと可愛がられたなどと言ったり、また自分は夫からとても大切に愛されているなどといってしまいます。たいていはその逆で、もてない人ほどもてたと言う.......。
そういう人は、職場や地域でもたいていトラブルメーカーだったりします。
つまり自分には、「問題がある」あるいは「問題があるかもしれない」と発想するほうが健全であり、「問題のあるケース」ほど、「問題が無い」と考えて、他に責任を押し付けるなど、現実認識がずれてくるのです。


さて、ここで私の説の「切れる子供の怒りのルーツは、親から」を証明するもう一つの事実を挙げてみましょう。
それは幼児虐待をする親は、例外なく「自分も虐待を受けた経験がある」という事実です。
これを示すと「自分がされていやなことは他人にしない」、「虐待を受けた経験があるのにどうして?」と言う人がいますが、この発想は、あまりに短絡的・情緒的過ぎます。


違う例ですが、いじめられっ子が自分よりも弱い子をいじめるのはよくあることです。また職場でいやな気持ちになったお父さんが家に帰って家族に八つ当たりをし、イヤな思いをさせてしまうこともよくあることです。
このように人間は、良くも悪くも人からされたことを、人にしてしまうのです。
ですから、やさしくされて育てば、やさしい人間になりますし、反対に虐待されて育てば、虐待をしてしまう大人になってしまう可能性は大きいのです。


ここで自分が虐待を受けた事実を、正しく認識していれば、自分が他を虐待する可能性は少なくなるのですが、しかし問題のある家庭ほど、親も子供も虐待の事実を認識していないことがあります。では、虐待をどのように考えているのでしょう?


親は「躾」と考え、子供は「自分が悪い子だから」と考えるのです。
つまり親の愛情の無いケースほど、「虐待」を親子で正当化してしまうのです。
子供にとって「親から愛される」と言うことは、何よりも大切であり、親から愛されていないと考えることは、とても辛いことです。
虐待されても親を正当化して、自分が傷つくことを避けてしまうのです。


やがてそのような子供が育ち、親となった時に同じことを繰り返してしまいます。
自分がそのように育ち生き永らえててきたので、真剣になればなるほど我が子に成功体験としての、虐待を繰り返してしまいます。
そして虐待は、自分が受けた以上ににハードになって行くのです。
それは何故かと言いますと、自分の受けた育ち方を無理に正当化しているので、自分の成功体験を(本当は成功体験ではないが)真剣になればなるほど良い事と考え、より強くハードにやってしまうのです。

..........続く。


次回は対処法をお話します。



”心をなおす”心理学

今 日本は心の問題で、悩んだり、苦しんだりしている人々が非常に多い
中高年齢者の自殺が社会問題になり、子供ではいじめや不登校または拒食問題が象徴的である

00.12.23発信
『なぜ、ここまで心の問題が噴出してきたか...』という背景は、今後に述べるとして
今回は、その対処法を中心にお話します。

まず自殺についてですが、これは、絶対に防げるものです
アメリカ国立衛生研究所の調査によると、自殺者の9割は、うつ病・分裂病・アルコール依存症など
何らかの心の問題を抱えている事が明らかになっています。

ここで問題になるのは、日本独特の偏見です。
●精神の病気に対して.....
●心療内科や精神科に受診する事に対して.....
そのことで治療が遅れたり、治療をしなかったりして、命を捨ててしまうケースが多いと考えられます

自殺というものは、自ら命を断ってしまう行為ですが、死にたくて死ぬ人はいないのです。
よく「なにも死ななくても....死ぬほど頑張れば、なんとかなったのに....」などという人がいますが
これなど理解不足も甚だしいです。
本人はもう、死ぬほど頑張ったのです。その段階を過ぎているのです。
自殺は、それしか選択肢がないほど、外堀がうめられてしまった結果なのです
「頑張る」とか、「気の持ちよう」などという段階ではありません。

ここで大切なのはきちんとした情報です。
前述した通り、自分を追い詰めてしまった原因には、うつ病など精神疾患もある可能性が
大きいのですから、まず精神科か心療内科に受診することが良いと思います
これが命を救う第一歩です、これをしないでその他をしてはいけないのです

まず病院へ。受診しただけでも自分を救う第一歩を踏みだしたことになるのです
心は特別ではなく、脳の機能の一部です。お腹が痛くて医者に行くのとまったく同じ行為なのです
ひとりで苦しんでいないで受診すべきです
それと、精神安定剤や坑鬱剤にも、無知からくる偏見が強いと感じます
普段、胃腸薬や頭痛薬など平気で飲んでいるのに
「安定剤は、あまり飲まないほうがよいのでは....」と言い出す
飲まないでうつ病が進行してしまうほうが、とてつもなく恐ろしいのです




日常生活でのうつ病など、心のスランプにならないための注意点

        ☆睡眠がうまくいかない
        ☆頭が重い
        ☆体にだるさがでてきた

この3つの症状がでてきたら軽いうつ症だと自覚して休養をとることが大切です

心も、もちろん身体の一部なので、ゆっくり休養をとり、きちんとした食事を摂り
軽い運動などでリフレッシュをすると、自然と回復してくるのです

また、このうつ病までいかない軽いうつ症のとき、はり灸治療がとても有効です!

このような症状のときは、首・肩・背中がコリやすいのです
このコリをていねいにほぐしてやると皆、頭がすっきりして元気になります
そして胃腸も弱っているので、胃腸を整え、便秘を治すために腰や背中・足の三里にお灸を
すえたり、不眠には、頭の百会踵の失眠のツボにお灸をすえると、首や肩のこりがとれ、
胃腸が整い、便をすっきりだして、深く眠ることができるのです

こうする事により、心を治療したわけでもないのにとても元気になるのです
心は、神秘的なものでもなく、身体の機能の一部なのだから、体調がよくなれば元気になるのは
当たり前の事なのです


・百会.....頭のてっぺんにあるツボ
     両手の親指を左右の耳の穴にいれ、ボールをつかむ要領で頭をつかんだとき、中指が
     合わさるところ
     すべての経路(生命エネルギーが流れる通路)が交わる一点という意味でこの名がある
     頭痛や、不眠、または身体のだるさに良く効くツボです
     むくみや痔しつにも効く名灸穴です

・失眠.....足裏の踵の真ん中にあるツボ
     身体全体の過敏な状態や、緊張した状態をほぐす働きがある
     不眠に良く効くツボです

今後も ストレス社会における、さまざまな病気の特集を続けていきたいと思っています
皆様のご意見やご感想をお待ちしています
e-mail harikyu@awa.or.jp

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