HOME
戻る

連載エッセイ


2009.9
なぜ山に登るのか。
 
 今年の正月は、標高2,599mの金峰山に独りで登った。
 1年のスタートを厳しい冬山で迎えられて最高の気持ちだった。
なぜ山に登るのか「そこに山があるから」と言う名文句がある。がしかし、これではなぜ海は広いか「それは海だから」と同じで答えになっていない。
 私の場合は気持ち良いから。山に登ると物凄い快感を得られるから。
 確かに登山はとても苦しい。息も切れる。大量の汗もかく。大自然相手で危険も多いし、虫や動物もいる。リュックは重い。それで「どこが楽しいの」との疑問は当然沸く。
 しかし登山をすると自分が生まれ変わった位すっきりする。
 自分の心身のすべてを出し切って困難を乗り越え、目的を達成した時に味わう充実感は最高である。
 また独りで山を登る時、一歩一歩大自然の中を歩いていると、自分が自然の中に溶け込む時がやってくる。私は、それを山に抱かれると表現している。日常生活の自分が自然の中に溶けて、自分が自然の一部になる。まるで自分がきつねか、熊か草か木か水になってしまう感覚である。
 忘我の境地だ。忘我の境地になった時の心は最高に愉快だ。最高に気持ち良い。それでいて心は不思議と穏やかで落ち着いている。そして風景もいつの間にやら違って見える。樹木や沢や草が輝いて見える。すべてが生き生きと輝いて見える。
 こんな素敵な心で頂上に着いた時に見る絶景の大パノラマは最高だ。
「登山は何時から始まるか」
 登山の楽しみは頂上に立つ事だけではない。
 山に行こうと決め、その計画段階から始まる。朝まだ夜が明ける前の星を見ながら静寂の森を歩くのはすがすがしい。
 ブナの原生林の森に漂う原始の圧迫感に圧倒されるのも醍醐味だ。湧き水で顔を洗い喉を潤したとき、水との出会いに感動する。
 百瀬昭次さんの本で成功とは何かと言う項がある。この登山の話と関連しているので紹介させてもらう。
 百瀬さんによると、成功とは『ある目的について決意した時』で目的をクリアした時ではないそうだ。
 例えば受験で志望校に合格した時が成功ではなく、ある学校に合格して入学したいと決意した時がすでに成功だそうだ。
 成功とは過程のであると。成功を達成点と考えてしまうのは、我々が陥りやすい落とし穴だと。成功を到達点と考えるとその過程は苦しく不安が大きい。しかし成功は過程と考えると既に決意した時が成功なのだ。すると既に成功しているのでその道中の不安が前者とまるっきり違う。当然道中色々な事がある。不調もあればスランプもある。しかし成功を過程と考えているから、一喜一憂しない。これが成功を到達点と考えると、まだ成功していないからスランプなどで一喜一憂してしまう。つまり不安だらけの道中になってしまう。そして失敗をしてしまうと。
 ではなぜ不安になると失敗するのか。
 百瀬さんによると成功するためには潜在能力を発揮する必要があると。

 潜在能力は、物凄い能力で誰もが持っている。この潜在能力を発揮できたか否かで人生は決まる。その潜在能力は、不安があると現れないと言う特徴がある。潜在能力は確信して努力したときに現れる。潜在能力の出現の法則があると。潜在能力は努力と比例して現れない。潜在能力は確信した努力を長い間こつこつ続けていくとある瞬間一気に現れる。
 そういえばマリナーズのイチローもオリックスのと時、急に打ち出したし、ホームランキングの王貞治もそうだった。
 私自身、長年鉄棒の蹴上がりが出来なかったが25歳の時、突然出来た時、自分でも驚いた記憶がある。何かが成される時は、一気という事が多い。皆さんも思い当たる事があると思う。子どもの時の逆上がりも難解もトライを続けているとある瞬間突然出来て、自分でもびっくりする。成功は旅なのだ。成功とは過程なのだ。
「成功の旅」
 登山でも人生でも仕事でも困難はつき物である。
 登山はどんな山でも楽しい。正直、難易度が高いほど無事下山した時の充実感は大きい。夢も大きいほどその困難も大きい。そして充実感も大きい。
 その困難を乗り越えて目標を達成する喜びを登山は教えてくれる。遥か遠くに見える頂。まだあんなに遠いのかとため息が出る。リュックのベルトが肩に食い込む。息が切れて苦しい。足はつりそう。汗が目に入って痛い。それでも一歩一歩、歩みを止めなければ誰でも頂上にたどり着く。その厳しい過程にも喜びがある。自然の中で前を向いて前進する喜びだ。もっと具体的に言うなら厳しい過程にチャレンジする喜びだ。
 冒頭書いたのが正月金峰山に登った。
 なぜか。この何年か家で駅伝を見ていた。はっきり言って自分は不愉快だった。駅伝にではなく自分に対して。時間がもったいない。正月早々過食過飲で駅伝を見ている受身の自分に不愉快だった。1年のスタートがこんな事で良いのかと。
そこで金峰山登山なのである。
 心は最高だった。登山道の途中に神社があって初詣の祈りは充実感の極致だった。チャレンジすることはなんて素晴らしいのか。
 頂上はマイナス20度。食べ物も粗末、足は痛い。途中はカニの横ばいのような恐怖の岩場もある。それでも家でコタツに入っているより遥かに楽しかった。
 チャレンジして困難な過程を楽しむ。歩みを止めなければ目標にたどり着く。成功は到達点ではなく過程である。登山はそんな素晴らしい事を教えてくれる。
2005.7.10

湯 治 の 旅

 平成16年12月29日から1月3日まで山梨県早川町の西山温泉で湯治をしてきた。
 実は、私の趣味は湯治なのです。温泉は、すばらしい。温泉は、心身共にくつろげる。
 静かに湯に浸かっていると忘我の境地になる。温泉は、湧水の一種だ。だがそれが普通の水じゃない。なにしろ温かい。それに様々のミネラルや鉱物がイオンの形で溶け込んでいる。これが皮膚などから吸収され身体に良い。また飲泉可能の温泉は内臓からも吸収され様々な内臓障害にも良い。ヨーロッパ諸国では、温泉は薬として扱われており医師の処方箋によって飲泉する。

 私は、湯治は日本だけだと思っていたがポルトガルに旅した時、たまたま湯治スタイルが存在するのを見た。ヨーロッパ諸国の温泉は入浴でなく飲泉型なのだ。ポルトガルの山のジュレイシュというミーニョ地方の小さな町を散歩していた時、道端に人が並んでいた。

 私は、何だろうと思ってみると、みなさん手に紙をもっている。行列の先頭の人が白衣の人に紙を渡すと白衣の人が源泉からコップに温泉を処方していたのだ。紙は処方箋だったのだ。夕方になると源泉は鎖錠され厳重に管理されていた。

 私の泊まった宿はたまたま湯治宿だった。お年寄りやガンの手術を受けた方が泊まっていた。みんな連泊していた。孫を連れている老人も何人かいた。昼間は、温泉療法をしたり山の自然環境豊な所を散策したりしていた。食事は、野菜の多い比較的粗食を食べていた。夕食後は山のハーブから作った薬草茶が出されていた。みんな思い思いにカードをしたり談笑したりして夜の時間を穏やかに過ごしていた。私も部屋に引きこもらずにダイニングでみんなと同じに薬草茶を頂いた。お陰でガンの術後療養に来ていた親子と友達になり山や湖を一緒に散策に連れて行ってもらった。帰るときその親子から一緒に海の近くの町までいこうと誘ってもらったのだが、遠慮して断ってしまったのが今になって考えると一緒に行けば良かったと後悔している。このとき日本の湯治スタイルと同じだとつくづく思った。湯治は普遍的スタイルだったのだ。

 そう今回の西山温泉はすばらしかった。感動した。西山温泉は南アルプス山中まさに幽谷深山に存在する。ものすごい渓谷と原生林に囲まれている。心身を癒すには、もってこいの環境だ。温泉のエネルギー源は、静岡−糸魚川断層、そうフォッサマグナだ。本州が弓なりにきしぐ中心軸に発生するエネルギーだ。これが地熱を発生させ原生林の山地に降った何十年前の雨の地下水をじっくり暖める。その熟成過程で地層の鉱物がミネラルイオンの形で溶け込む。そして長い時間をかけて地表に湧出してくる。西山温泉は、火山系でないので温度が低いが性質はまろやかで優しい。そして飲泉できる。湧出温は42℃だ。

 湯船が三つ仕切ってあり温度が徐々に低くなる。一番低い湯船は38℃だ。だからゆっくり入っていられる。みんな最低一時間は静かにじっと入浴している。まるで座禅道場の様だ。修行をしている様だ。男女混浴だが、みんなマナーを守っている。良い雰囲気だ。私は、二時間位じっと入っていた。じっと目を閉じ、ただ湯に浸かる。聞こえる音は源泉の注がれる音のみだ。これぞまさに日本流癒しだ。湯船から流れ去る源泉が私の心身の汚れを清めている。時々飲泉する。胃腸に卓越した効果があるそうだ。

 ぬるい湯に長時間入る湯治スタイルは全国各地にある。これも湯治には、良くあっている。熱い湯は短時間しか入っていられないがぬる湯は、長時間入っていられる。
まさに湯に入るのが仕事のような生活になる。湯治はひまなので湯に入っている以外、部屋に引きこもるか散策するか自炊するしかない。しかし湯治温泉は普通深山にあり厳冬期に散策や自炊はきつい。部屋に引きこもっても寒いだけである。するとぬる湯に入って時を過ごすのが一番なのだ。それとぬる湯に長湯は精神の鎮静作用がすごい。羊水効果が働くのだ。ぬる湯は一般に温泉成分が穏やかなのでじっくり身体に、成分が吸収される。私は経験してみてぬる湯の一番の効果は鎮静作用だと感じた。

 湯治をしていて何時も感じるのは湯治場の古い湯船、浴場、湯屋のすばらしさだ。お寺の様な雰囲気がする。そこはかとなく落ち着く。自分でも不思議なほどリラックスする。異常にリラックスする。これは源泉の良さだけではない。湯屋の風情も必須だ。明治、大正、昭和初期の文化、底力を感じる。良き日本文化を感じる。
 私は湯治で生き返る。生きる力を温泉からもらっている。私は自然湧出泉を愛している。

 最後にこのすばらしい温泉文化が末長くいつまでも、いつまでも継承されることを心より祈ります。大自然が生んだ西山温泉その源泉を守り湯治スタイルを守る蓬莱館、心から感謝致します。
2002.12.25
鴨川にもあった!養老の滝伝説

私は水が好きだ。私は水に興味がある。特にきれいな水には目が無い。水というものは人が生きていくうえでなくてはならない物質である。私たちは毎日朝から晩まで否生まれてから死ぬまで常にお世話になっている物質である。水がなくては人間など数日しか生きていられない。また水というのは大変美しい物質でもある。人里離れた山奥の渓谷の清流など感動的な美しさである。またこんこんと湧く泉も美しい。そう、たいてい泉には神様が祭ってあり村の聖地でもある。水道のない時代、湧水はまさに人々の命の水であっただろうし涸れてはならない汚してはならない神様であったはずである。
私は患者さんから湧水の話を聞くと必ず休診日にペットボトルをもってその湧水を訪れてしまう。今年の9月鴨川市宮山に『こわ清水』と呼ばれる湧水があるとの情報を地元の患者さんから得た。私は『こわ清水』とはなかなか、すごい湧水ではないかと直感した。なにしろ名前がすごいではないか。それはどんな湧水なのか、どんな処から湧きだしているのか、周りの植物はどうか、水のうまさはどうか、など一人で想像していた。そんな矢先ちょうど宮山地区の患者さんが来院された。その方に『こわ清水』について尋ねたら驚くべき情報を知っていたのでした。そのやり取りを再現しよう。
『Oさん。宮山に、こわ清水と呼ばれる湧水があるそうですが知っていますか。』
Oさん『ああ知っているとも。』
私『こわ清水ってどんな字を書くのですか。硬いという字ですか。』
Oさん『こわ清水の「こ」は子供の子ですよ。』
『え、、、子供の子ですか。』
Oさん『こわ清水は正式には「親は良い酒 子は清水」というんじゃよ。』
『親は良い酒 子は清水。へーこれは、名調子ですね。』
Oさん『鴨川にも養老の滝伝説があるんじゃよ。わしも親から伝え聞いたのじゃが、昔 宮山に孝行息子がいたそうじゃ。その息子が山に薪拾いにいった時うまく薪が拾えなかった日があったそうじゃ。その息子は、薪が少ないと親ががっかりすると考え薪のかわりにその日、山の中で見つけたうまい湧水を親に飲ませようと汲んで帰ったそうじゃ。家に帰った孝行息子は、親にその水を飲ませたそうじゃ。すると親は、この酒はおいしのう。といって喜んだそうじゃ。そういう言い伝えがあるから「親は良い酒 子は清水」と呼ばれるそうじゃ。』
『へーじゃあ こわ清水は伝説の名水なんですね。』

以上の話を宮山の患者さんから聞いたのです。その後、山に詳しい地元の患者さんから『こわ清水』のおおよその場所を聞きました。そして休診日に『こわ清水』を探しに出かけました。

子は清水は、御米塚と言う屋号の一軒家のところから山道を登って行きました。その道は昼なお暗い杉の森をのぼっていく、さみしい道でした。山なれない人ならチョットうす気持ち悪くなるような、私も一人で歩くのが怖くうっそうとした道でした。道なりに歩いて行くと『こわ清水』らしき湧水を見つけました。水の量は多くないのですが、きれいな水がこんこんと湧いておりました。湧水はあいにく地域の水源として管理されていたため飲むことはできませんでした。『親は良い酒 子は清水』とうたわれた名水を飲むことができなかったが、美しい湧水を見ることができて私は満足して帰路につきました。帰り道に御米塚まで来たら道端で話をしている老婆が二人おりました。私が挨拶すると『どこまで行ったのか。』と二人に尋ねられました。私は、『「子は清水」まで行った。』と答えました。そこでまた新たな「子は清水」の伝説を偶然にも聞かされたのです。その状況を再現すると

老婆『「子は清水」は、おいしい水なんだ。「親は良い酒 子は清水」って呼ばれてね。ここの地域では人の死期が近づくと決まって「子は清水」の冷たいお水を飲みたいと言うのじゃよ。私の家のおばあさんもそうじゃった。そうだから寝込んでいるお年寄りが「子は清水」が飲みたいと言うと死期が近いことがわかるのじゃ。』
『「子は清水」は本当に伝説の水なのですね。』
老婆『で、「子は清水」は飲めたかね。』
『それが囲ってあって飲めなかったのですよ。』
老婆『では、私の家の水は「子は清水」からの引き水だから飲んでいきなさい。』
『えーいいんですか。ありがとうございます。』ということで偶然にも「子は清水」を飲めることになりました。山の神様が私に「子は清水」を見に行ったごほうびに「子は清水」を飲ませてくれたのだ思いました。里見の末裔で築300年総ケヤキ造りの御米塚の老婆の家に案内されました。そこで飲ませてもらった「子は清水」の味は本当に不思議なことなのですが、吟醸酒の味がしました。よい酒は時として名水のような味がするのですがまさにそんな味でした。

『あー本当に「親は良い酒 子は清水」なのだなー。』と感動してお水をお代わりさせていただきました。老婆から梅干しもいただきました。『御米塚のおばあさん本当にありがとうございました。』ということで以上の話は私の作り話ではなくノンフィクションです。2002年11月の木曜日、私が『伝説の名水 子は清水』を嶺岡山脈に探しに行った話なのですが鴨川に養老の滝伝説があったことをここに証明致します。

2001.3.23

早春の丸山町大沢林道を歩く

12月にリポートした丸山町の大沢林道を3月7日に歩いてみました。
当日は、気温が真冬並に低く寒い一日だったのですが、林道では、沢山の春の恵みに出会うことができました。
この時期に林道を歩くと、誰でも道端にフキノトウを見つけることができます
もちろん私もあっという間に夕食のおかずになるだけのフキノトウを見つけました。
山のフキノトウは、里のものよりも香りや苦味が強く、とても個性的です。
食べてみると「オレはフキノトウだぞ!」と強烈に自己主張をしてきます。
なのにやわらかく、とてもピュアなのは山の湧き水で育っているせいでしょうか?
昔よき時代の日本の心と出会ったような気がします。
フキノトウを摘んでいるとそのすぐそばに三つ葉も、もう出ていました。
山の三つ葉の香りは、最高です!私は三つ葉を摘むたびに必ず茎の香りを嗅いで、香りを楽しみました。
ところで私の今回の林道歩きでは、ひそかなる野心があったのです。
それは、天然の自生シイタケを見つけることです。
今年は雨量が適当にあり、暖かい日も何日かあったので、もしかしたらシイタケと出会えるかもしれないと考えたのです。
しかし行きの道では、見つけることはできませんでした。
シイタケと出会えなくとも林道は、沢山の喜びを私に与えてくれました。
ウグイスの鳴き声をはじめ、春の活気に満ちた鳥たちの声とすばやい動き。躍動感のある春のせせらぎの音。壁のように迫る平塚山。
私は、そんなワイルドな林道をあのこんにゃく体操の野口三千三先生のように、時に林道を舐め回すように、時に猫がねずみを捕るように、我が肉体の命ずるままに動き林道と戯れました。
のどが渇けば大沢に注ぐ湧き水を飲み、顔をジャブジャブ洗えば心が清められ、すがすがしい気分になります。
「ここの水は千葉県一美味しい!」

最高に気分のよくなった帰り道、なんと大沢でシイタケを見つけたのです!
林道から下を見ると沢にシイタケだらけの木があるではないですか。私は心をときめかせながらその木に駆け寄りました。
間近で見ると、軟らかそうで美味そうなシイタケがびっしり生えていました。一心不乱にシイタケを採り、あっという間に袋はシイタケで一杯になりました。
私は、シイタケやフキノトウなどの山の幸で一杯の袋を下げて鼻歌交じりの愉快な気分で帰り道を歩きました。

以前読んだ本の「東北地方の春の山菜取りは、ただ単に食料を採取するという機能的な意味だけではなく、宗教的な意味もあった。」という文章を思い出し、なんとなくそれを実感したような気がしました。
春の野山で一心不乱に山菜を採っていると自我が解けて自分がまるで野鳥にでもなってしまったような、麻薬でも吸って夢でも見ているような、自然と一体になったような錯覚に陥ります。
気がつくと日常の心の垢が剥がれ落ちて、最高に愉快な気持になります
世界中で日本だけが、麻薬が根付かなかったといいますが、山菜取りをしただけでもその理由がわかる様な気がします。
麻薬以上に山菜採りは、愉快でハイな気分になれると思いますので....。
ちなみにシイタケは、焼いて食べたり天婦羅にしたり、天然のシイタケは、気絶するほど美味かったです!
以上。早春の丸山町大沢林道のレポートでした。

2001.2.5

知られざるスペイン・ポルトガル紀行 その2

海外旅行のもう一つの楽しみといえば、グルメ!今回はポルトガル料理を紹介したいと思います
もともとポルトガルと日本とは歴史上でも大変なじみが深く、私たちの生活の中に当たり前のように存在しています
例えば、カステラやたまごボーロ、南蛮漬け、ボタンにカルタ、タバコにシャボン、フラスコ、鉄砲、キリスト教......と。これらはすべてポルトガル由来で、鉄砲の伝来(織田信長の時代)以来、かなりの影響を受けているのです
ポルトガル料理の形式は、スープで始まり前菜・メインディッシュ(肉や魚)そして、最後にデザート。そこにパンがついて、ワインはお好みでということになります。パンは、日本でいうコッペパンのような形をしていて色は茶色っぽい。だけど、とにかく硬くてしっかり噛まないと食べられません
味は素朴な塩味でバターをつけて食べると、それはそれは美味しいのです。歯ごたえがあり、噛んでいると小麦の発酵したうまみが、口の中だけでなく脳にも全身にも広がります。それに比べ日本のパンは、お菓子に近いような感じがします。
レストランやリスボンに向かう飛行機の中で、その茶色い硬いパンにバターをつけてかみ締めたとき、つくづく、『ヨーロッパにいるのだなぁ』と実感しました


さて、パンとくればチーズを紹介しない訳にはいかないでしょう
どちらかというと日本人はチーズが苦手な人が多いと思います。何を隠そう私もあのプロセスチーズが苦手でした
ところがポルトガルでチーズを食べてから、私のチーズ観は180度変わってしまったのです。朝食にチーズがないのは、日本でいう“朝食に納豆がない”のと同じ事!

発酵させたチーズは、ミルクの脂肪分の旨みを何倍にも引き出してくれます。そしてロースハムとの相性は最高で、チーズの乳酸菌の作るまろやかな乳脂肪の旨みと、豚肉の奥深い旨みが相乗し合い、味わっていると、とても幸せな気持ちになるほど美味しいのです


スープは、味噌汁のようにジャガイモや菜っ葉を煮込んでオリーブオイルや塩で味付けをしてあります。たっぷりの野菜、とてもヘルシーで美味しく、昼でも夜でも注文をしてしまいました。

メインは肉や魚ですが、その中でも特にタラの料理が有名です。シンプルにタラをグリルしてオリーブオイルとにんにく・塩で味付けをしたものや、小麦粉でムニエルのようにしたものをレモンを絞って食べたりします。

タラはポルトガルの家庭料理では欠かせないもので、コロッケにしたりジャガイモと玉ねぎで合えたりしてよく食べるようです。
海岸沿いですと、豊富な魚介類をジャガイモと玉ねぎ、トマトで煮込んだリゾットが美味しいです。

私は、このリゾットを食べてとても不思議な体験をしました。
今回の旅は、出発直前まで仕事をしていて、かなりの強行軍の予定を組んだせいか、その日は、疲労がピークに達し、もう最悪の体調でした。ボリュームたっぷりの、リゾットを見て正直なところ食べられるかどうか、不安なくらい食欲もなかったのです。
ところが、一口食べてみると.....トマトの酸味がきいていて、口当たりも良く、結構食べられるのです。ジャガイモに魚介類のだしと、トマトの酸味が溶け込んでいて、美味しいではありませんか!
これならいける!! 食欲もどんどん湧いてきて、魚に貝にエビにと、さっきまでの食欲のなさがうそのように食べてしまったのです
食後、なんだかすっかり元気になって気力も戻っている自分に、驚いてしまいました。
ポルトガルの旅を無事に過ごせたのも、このリゾットに出会えたおかげかもしれません

まだまだ沢山 安くて美味しい料理をご紹介したいのですが、この辺で...。
もちろん、当院にいらしていただければ、いつでもポルトガル観光のお話をします。

2001.1.19
知られざるスペイン・ポルトガル紀行
 その1


年末年始の休暇を利用してスペイン・ポルトガルへの旅をしました
姉夫婦がポルトガルのリスボンに住んでいるので、もう3回目となります
訪問するたびに自動車を貸してもらえるので行動範囲も広がり、とても助かります

私はいわゆる観光地というところには、どういうわけか興味が湧かず、ひなびた山村や農村に興味が湧くのです
そういう所は、すこぶる交通の便が悪く、普通の旅行では訪問することは、まず不可能でしょう。ですから自動車が最大に力を発揮してくれるのです
バスも鉄道もない、人口50人から100人という山村にまでも運んでくれます  
           

夜、リスボンに到着し、早速翌朝からポルトガルの田舎町を目指しました
ハイウェイで3時間も走れば、そこはスペインとの国境近くの街......。
高速を降りるとそこから先は私の大好きな田舎路が続く
家もなく行き交う車も少なく、ただ々オリーブ林の丘が果てしなく続く。
時々林の中に羊が放牧されている風景を横目に見ながらのんびり走ると、遠くの丘にお城や教会の塔が見えてくる。城壁の残る小さな街......。

                               
城壁の中に、中世の面影を残した街を歩くのは、ポルトガル・スペインの旅の醍醐味です
何故ならヨーロッパ旅行という空間移動の旅だけではなく、中世という時間旅行に自然と精神が旅立ってゆくからです
街の中を通る路はたいてい石畳で、両脇にはとても古い白壁の家並が続く。
時折、老人が路を挟んだ2階どうしで話をしていたり、子供たちが路地でサッカーをしたり、当てもなく歩いていくと市場が開かれていて、オレンジ・チーズが山積みになっている
カフェでは男たちが会話を楽しみ、昼には教会の鐘がなる。町の中心の湧き水場では女たちが会話しながら洗濯をしている。ロバに荷物を積んだ人が市場から帰る  

    
そんな風景の中に身をおいて目的もなく歩いているとなぜか私の精神も共鳴して過去へとさかのぼって行く........。
幼い頃の思い出や、無我夢中だった青春時代、四畳半一間でアルバイトをしながら、三食完全自炊で通った鍼灸学校時代など、何故か苦かった時のことを思い出してしまう。そして「自分もよく頑張ったよなぁ。」と思ってしまう。
      
 行き交う人を見ていると、「生きていくということは、古今東西同じなんだろうな...。」と思う。
そして自分にとって本当に大切なものとは、自分らしい生き方であり愛情であると考えてしまう                   .....次回へつづく

2月の恒例ハイキング(毎月第二木曜日)は『高宕山』を予定しています
どうぞお気軽にご参加ください

連絡先:04-7093-4512
E-mail harikyu@awa.or.jp

2000.12.13
 房州の冬は遅い 12月だというのに いまだに紅葉が楽しめる

休診日の木曜日に丸山町の大沢林道を散歩した この林道は 温石川の源流沿いに造られている
平塚山と経塚山に狭まれた知られざる渓谷である

私はよくこの林道を歩くのですが もみじが紅葉する12月は特別美しく沢の水も一際澄んでくる
この美しい道を歩いていると 心もだんだん澄んでくる 

しばらく歩き続けると自他の区別がなくなるような なんとも言えない境地になる
心底楽しく愉快な それでいて最高に落ち着いている忘我の境地である

私はこの瞬間を「山に抱かれる....」と表現する

本当に自然と一体化したような心地よさなのである 登山をする人ならこの心地よさを
皆経験していると思う
 
 たまには自動車もテレビもITもない静かな世界を目的もなくただ歩いてみませんか
そして沢のせせらぎや鳥のさえずりに耳をすませ紅葉の美しさに時間を忘れてみませんか
汗をうっすらかいて身体の声を聞いてみませんか きっとあなたの世界が変わると思います

さあ ひとりでも..... 家族と... 恋人と... 紅葉の森にでかけましょう

 南房総の山に興味のある方いっしょに歩きませんか 毎月第二木曜日ハイキング
行っています 初心者の方でも大丈夫です

1月は『丸山町の御殿山』を予定しています 参加ご希望の方は下記に連絡してください


千葉県鴨川市横渚396
伊丹 修一
TEL・FAX 04-7093-4512
E−mail harikyu@awa.or.jp

戻る  HOME