さて、天狗はいつまでも山奥に住んでいたわけではありません。村人が海の近くにばかり住むようになり、どうしたかというと500年前の午年の日に、人化の法を用いて人となって出家し、源心という僧侶となり根久保高徳院の住職ついて立派に民草に分け入るようになっていました。
それを聞いた里見氏正木大膳上時茂は、籠を降りてひざまづいて何度も教えを請おうとします。
「永遠とも思えるほど長き天狗の寿命を捨て、弱き人間となってまで民草に分け入るのはなぜじゃ」と尋ねます。その時天狗はただ一言「捨ててこそ」とおっしゃいました。
正木大膳上時茂は「何と尊いことじゃ」とと涙を流して天狗に感銘し、いくさで里見氏を救った恩返しにと聖徳太子の余仏 里見氏国宝の虚空蔵菩薩を高徳院にお祀りしました。ところが天狗だった源心も老い衰えたある夜のことです。長髪を両脇に結った少年が源心の夢枕に立ちます。
「我はながらくこの地に龍燈を掲げた龍であり虚空蔵菩薩そのものでもある。されど村人はその龍燈をかかげる大穴に気が付かん。その東の祠に我を祀れ、さすればその祠に我は龍燈を掲げつづけようぞ。東の祠に日の出前に来れば我の姿が見られるであろう」
「そこに明けの明星を拝む護摩堂をつくれ、おぬしがそこで京の都から持ってきたあと二つの投天石に智慧と福の力を授けよう。智慧が福をもたらす秘法を村の民草に説けば、我はこの村に五穀豊穣をもたらせ海は豊漁となるであろう。永く永く万民豊楽の利益を施そうぞ」
「『南無福智満虚空蔵菩薩』と一遍唱うれば福と智慧を授かろうぞ」
「おぬしには寿命があろうと丑年と寅年には我が子をはらませようぞ」とおっしゃられた。源心は驚きおののき、東の祠をようやく探しあて、その朝の美しさに驚いた。
その祠へ目掛けて海から河口川が伸びていて、日の出と共にその川を朝日が光る龍のように駆け昇り、たちまちに祠の奥まで光が差したではないか。
「根久保高徳院は二山も奥もの寺山にあるが、土地が隆起し民草もさらに東の海に住すようになったので虚空蔵菩薩も民と共に宿を遷せと云う事じゃな」
と悟り、里見氏正木大膳上時茂と共に村人と力を合わせ今の虚空蔵堂を祠の中に建て、龍光山と名付けられ、後に源心の弟子らがさらに東側に今の高徳院を建て、里見氏から龍光山高徳院と名を頂いた。正木大膳上時茂は源心の弟子として高徳の名を授かり元旦31日には村の若人らが組んだ井戸水で水行をとり、寝ずに初日の出には龍燈を拝む源心を支え、欠かさず正月は里見氏をあげて参拝し、晩年も年頭の文を送った。また、毎年の節分には句会を開いて村人を招き盛大に祭りを行い、村人も毎月13日には「お籠り」を開きこのお話を子々孫々に言い伝え祈りをささげた。
安房の国はとりわけ誇り高き民族でありながらおおらかな人々が多く、今でも天狗の源心が京都から持ってきたといわれる投天石は高徳院の住職が知るそうじゃ。