出開帳(でがいちょう)と言って市中に観音様をお連れして募金活動等の社会貢献を行うための観音像を作りたいというのが10年以上前からの目標でした。

私たちはきっとそれぞれですが、願い事が原因で人間性が作られ、多くの願いが叶わないのに幾度も多くの願いを立て続けます。その願いに引きずられて道が定まることは常日頃多くの人生に触れていると実感できます。世の中の何が栓ないかといえばその願いが容易に叶わぬところかもしれませんが、たいそうに言えば、時勢の混沌や貧困、唐突の病等の願いが叶わぬ多くの理由のなかで一つ二つと願いを形にしてきた結果が今の娑婆のようです。きっと崩れても崩れても、ものを積み重ねることを醍醐味と言い、これは容易にものが成せない娑婆にしかないものではないでしょうか?

私はたまたま祖父母が男児を成せなんだので、祖父の養子の様に育てられ実直で優しき祖父の背中を追うように出家しました。若くして道を誤り苦労することの方が多かったですが、小さな願いも大きな願いも願いが人と道を定めるのであれば、私のお寺の先人の背中に報いるように生きれば道が開けると信じていました。しかしながら、一代空いたお寺はお恥ずかしいことにやはり皆様の会社と同じく迷走します。年間行事は衰え、葬儀や供養で得た寄付金は私が京都で研鑽を積んでいる間に行方不明となっており、寺院会計を先ず公開性にして皆で話し合い整備を行おうとすると莫大な費用が掛かることがわかり非難を受けるところから始まりました。貯金も底をつき、そこで多くを失って実感します。お寺の先人の背中に報いるように生きるならば物もない時代にどうやって道を作ったのだろうと考え、古文書やらを紐解き驚きました。今思えば初めて社会に出て父の背中にひたむきさを実感でき、子育てに悩みはじめて母のありがたみを実感できたかのような感覚かもしれません。

先人の記録には、命懸けで村人と地方の国分寺と観音霊場を歩き、自分のことではなく多くの人が願いを立てるように努めていたことが石碑や古文書に記されていました。先人の背中に熱きものを感じ、大きな建物を建立することができなくても、幾人か命を落とすのにも関わらず国家安泰を祈る背中を見せて下さった方々がいたのであれば、当時の仏像を一体復刻し先人と同じように背中に背負って市中を歩く住職を目指す決意を致しました。

倦む(うむ)ことも多くありましたが、私が歩くその背中が人々の願いを立てる縁になり、きっと各々が険しき娑婆で道を定めるであろう。いつの時代も娑婆は脆く(もろく)願いは容易にかなわぬものでも道を定めることができ、死がその背中に追いつくまで一つ二つは形となるだろう。その背中に報いんとその続きの三つ四つをまた幾人かが悩みながら追いかけるとしたら私の密にした志はなんと面白くなんて醍醐味なのだろうか。血縁や雨風しのぐ所で伝統は継承されるのではなく、伝統はこうして繋がるのだと思いたち、決定の心をもって奮起したのがこの度の市中を歩かんとした経緯です。

大八車について

今、この時代になぜ歩くのか…