高皇産霊神社の歴史と高井

− 昭和時代(戦後) −


  昭和21年 戦後の祭りが始まりました。
   
  9月15日の祭りの時、滝の口の神輿が祭礼に出祭せずに、榊を飾り賽銭を集めていたそうです。そして隣の神輿が出祭していなかった、そこにも賽銭が入っていました。それを滝の口の所へ移しました。それを高井の出身の人が見つけて、賽銭泥棒と言ったそうです。そして喧嘩になり、滝の口の人を殴ったそうです。その時俺は高井だと言ったそうです。(宮番で見ていた人がそうです。)
これが昭和22年の喧嘩の原因です。
(昔の話なので、本当のところはよく分かりません。)
 
  昭和22年9月14日に昨年の出来事をきっかけにして滝の口の神社の輿夫と喧嘩になりました。滝の口の輿夫は木刀や喧嘩の道具を準備して来た様です。高井の輿夫は何も知らずに喧嘩が始まり、当時の八幡神社の拝殿前には狛犬がありそれが落下したり、瓦が裏から飛んできたりして、最後には境内で死人の出る喧嘩になり大変だったそうです。未だかって双方の睨み合いも感じるほどです。(平成になっても警察はその事を言うそうです。)
ばらばらになった神輿の部品を集め、渡辺常吉氏達による大修理が行われた。(大工 渡辺常吉 他、漆 中村神仏具店、板金 尾崎)
   
昭和20年代 四国の金毘羅様が出張してくる。
高井は神輿を出祭する。
   

昭和36年頃から八幡祭礼の山車も2日間曳き廻す祭礼に変わりました。(館山市史)

   
昭和30年後期に莫越山神社の神輿と別々に八幡祭礼に出祭するようになる。そして9月15日の帰り道の還御の時に地元を廻らなくなり、直接神社に帰るようになる。
莫越山神社の神輿が9月14日に高井神社に寄らずに海幸苑まで車に乗せて来る様になったため、莫越山神社の役員が前日の9月13日の朝10時30分頃に、高井神社に挨拶に来るようになりました。そして高井区3役・氏子総代・青年3役で接待、会食する様になりました。
   
昭和33年 館山市とベルンハム市が姉妹都市を結ぶ。数年後にベルンハム市の市長を迎え歓迎式典を行い、山車や神輿が出たそうです。高井の神輿も参加し、木村屋旅館まで行き、もみ・さしを見せたそうです。そして市長と写真を撮ったり、握手などをしたそうです。
   
昭和38年 八幡神社での禄所祭が復活したそうです。(館山市史)
      
昭和40年代後期頃、昔使用されていた絵柄の手拭に変更、復活させました。
 
昭和46年9月 神輿の修理を行う。
区長 浜田 千倉の職人による。当時100万円の修理。
   
昭和47年・48年・49年 なぎさ銀座で行われた神輿祭りに参加、神輿を展示する。
 
昭和48年9月 小滝さんの畑の角地にあった幟旗を神社の境内へ移動する。そして幟旗を神社の名の入った旗に変更する。その時幟旗は島屋呉服店が寄付をしてくれたそうです。(幟建工事 渡辺石材)
 
昭和50年頃 八幡神社の一千年祭を記念して八幡祭礼が9月14日・15日・16日の3日間行われました。
 
昭和50年代に神輿の総重量を量りました。昔の人の言うとおり神輿の重量は四表半(270kg)の重量でした。
 
昭和50年代に水屋の屋根の銅版の葺き替えを行う。(寄付 鞄n辺建設)
 
  昭和53年 青年会が祭りの花を作り販売する。
 
昭和53年9月に奥の院の中の品物が盗まれたのに気付きました。そして祭礼の後に鏡や神霊などの道具などを購入する。(高皇産霊尊の神霊を買う)その後、奥の院の修理、エビ錠の鍵の修理を行う。
 
昭和54年担ぎ棒が折れたため、新たに長い物を作った、現在集会所にある長い物(渡辺大工製作)
 
昭和55年9月 高井の神輿の輿夫の手甲を揃えて八幡祭礼に参加する様になる。(デザインは長谷川欣也さん)
 
 
昭和56年8月 神社の屋根の修理、賽銭泥棒に壊された壁の修理をする。(修理 渡辺大工)
 
昭和56年9月 青年会が祭りのお花を販売していましたが、当年度より子供会が行うようになりました。
 
昭和59年3月 高井区の総会で事前に計画していた、神輿の大修理が決定しました。寄付は1軒当り、3万・5万・7万・10万と何段階がありました、それを3ヵ年の分割月払いでした。農地の土地改良で出来たお金があり、その金を借りて中村神仏具店に支払いをしてしまい。3ヵ年で土地改良へ返済する計画になりました。
 
昭和59年4月〜9月神輿の引渡しまでの間、神輿を少しでもよく作ってもらいたい。気持ちよく作業してもらいた。中村さんに任せきりにしないで見に言ってほしいと言われ、氏子総代・渡辺博司他数名が数回、お茶菓子を持って、中村神仏具店へ行き、神輿の製作進行の状態の説明や細部の打ち合わせなどの話をしました。青年会も数回、お茶菓子を持って行ったそうです。
 
昭和59年9月 神輿の大修理が終わりました。そして御遷宮を祝い9月吉日に餅を蒔き、記念の手拭と餅を氏子格戸に配りました。
   
  1.漆の塗り直し
  2.金物・宝珠以外の金物全部取り換え
  3.神輿の下の台を桧の薄い物から欅の厚い物にする。
  上記の結果、神輿が重くなりました。

青年会からの申し入れで、神輿が新しく・きれいになったので、莫越山神社の神輿と八幡神社に入祭したいと言われ、氏子総代渡辺博司が莫越山神社の役員さんと数回交渉した結果数年ぶりに海幸苑から2基で八幡祭礼に出祭できるようになった。そして、莫越山さんから神輿を合わせるに神輿本体を合わせずに担ぎ棒を合わせて欲しいと条件を言われた。また壮年会から当年度から天狗を復活させたいと申し入れがあり、海幸苑から八幡神社まで神輿の前に天狗を付けてお練りを行って八幡神社に入祭するようになる。(天狗と奏楽者の衣装は島屋呉服店が昔に寄付してくれた物だそうです。)
 
昭和60年9月 修理をして神輿が重くなった為、現在使用していた担ぎ棒が大きく曲がってしまい見た目も良くないとの事で新しい物を作りました。昭和59年の修理の時に担ぎ棒の穴を大きくして下さいと渡辺博司がお願いしてあったので良かった。担ぎ棒の高さを18mm大きくし、長さは以前よりの物より少し短くしました。(製作 渡辺大工)
 
昭和60年8月 青年会が先代より奏楽を教えてもらい本年から祭典の奏楽を始める。青年長 小宮耕一、神社より足袋代と運営資金を貰う。(奏楽の最初は安布里の神社に伝授を承けた。
 
昭和62年 青年長 高木喜章さんにお願いして安房神社に行ってもらいお練りの笛と太鼓を教えてくれるよう交渉してもらい、そして今年、高木青年長と会員7・8人ぐらいで行きビデオ撮影をして記録しました。そして今年度から海幸苑から八幡神社までの間、天狗に奏楽を付けて入祭するようになりました。
 
昭和62年4月 神社の回廊修理・神輿の寄付の掲示板を作る。(製作 渡辺大工)
 
昭和62年9月 奏楽の鼓と祭りの時拝殿の前に取り付ける、幕を新しい物にする。
 
昭和63年7月 「子供の神輿」新しいものを買う。そして子供の神輿祭りを復活させる。大人の神輿修理の時に残った寄付を利用して購入する。