高皇産霊神社の歴史と高井

− 江戸時代以前 −


  高井の官作宿内には古墳時代の土師器が出土します。
高井の歴史は北条地区の中で一番古いそうです。
そして、7世紀頃に高井で人が生活を始めました。
8世紀には行基が館山にも仏教を普及に来ました。その時同行していた人の中の1人が高井に住みつきました。(よしべさん⇒古茂口の福生寺と関係がある。)
 
高皇産霊神社の土地が鵜戸川橋の近くにあり昔はその場所に鎮座していた。(例大祭は9月15日)
 
嘉永2年8月吉日(1849年酉年)江戸時代後期に鳥居の前に建っている、石灯籠が建立される。
八幡神社は鎌倉時代に府中から八幡に遷座する。それにより莫越山神社の神輿が矢幡に出祭する祭に、莫越山神社の神輿が高井神社に寄って休んでいた、それと善浄寺の歴史を考えると、鎌倉末から南北朝時代かあるいは江戸時代後期ごろまでには、高井神社は現在の場所に遷座したものと考えられる。莫越山神社の神輿の輿夫が高井の神社で休憩を取っている時に、高井の住民に踊りや歌を披露しその場を賑わかした。
 
江戸時代には、高井村・古川新田村・北条村・長須賀村・八幡村・湊村の6村があった。
 
江戸時代後期ごろは高井の神社では獅子舞を行っていたそうです。江戸時代後期ごろに館山市の稲の神社の神輿と高井の神社の獅子舞の道具を取替えて神輿の祭りが始まった。取替えた理由は不明である。(館山市稲の石井さんの話)
 
明治維新前は、八幡祭礼は那古寺から、僧形八幡の画像を持って来て、これを本殿に掲げ、社僧が読経をして、祭典を行っていた。明治維新によって神仏分離令によって、この祭式も廃止された。(館山市史)
 
江戸期か明治初期ごろ八幡神社の国司祭に出祭できる機会が有り、その時莫越山神社の口添えにて八幡祭礼に出祭できるようになった。そして、高井の神社から2基で高井の天狗を付けて、八幡神社まで渡御するようになった。高井神社の例大祭が9月15日から9月14日の朝に移った。(江戸期か明治初期に出祭することは、房日新聞に書かれていた)八幡祭礼は3日間やっている時代があり、神輿は2日間で山車は3日間でした。高井では9月14日に於いては、高井の青年たちは莫越山神社の神輿を、府中の先の方まで出迎え(応援)に行き高井神社まで担いで来たそうです。また、9月15日に於いて莫越山神社の神輿を高井の神輿と2基で府中まで送り、お別れを惜しみ盛り上がり、分かれた後は、高井区の区三役や氏子宅を廻り神社へ神輿を納めました。着時間は定かではない。
 
1830年頃には、8軒の桑原村があった。桑原村には、菅原朝臣道真公を祭っていた神社、村社菅原神社が鎮座していた。(例大祭は9月15日)北条正木の一部に桑原の小文字があり、このことから桑原村は正木地区の一部であった事がわかる。
 
明治以前は、神輿は褌姿で担いでいた。(安房志の一節で千百輿丁皆裸身と書いてある)