
1.富浦と里見氏 |
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| (1)房総里見氏 | ||||||
新田義重の子・義俊は、上野国碓氷群里見郷に住して里見氏を称し、この義俊が里見氏の祖となりました。 義俊より9代・家基のときにおこった、「結城合戦」(永享11年(1439))で、戦に敗れた家基は、落城寸前に嫡男・義実を脱出させ、里見家の再興を図る事を命じ自らは討ち死にしてしまいます。 父の遺訓を受けた義実は、相模国に逃れ、嘉吉元年(1441)三浦半島を経て安房白浜に上陸したといわれ、この義実が房総里見家の祖とされています。 里見義実が安房白浜に上陸したころ、安房でも土豪の神余氏、山下氏、丸氏、安西氏の間で勢力争いが繰り広げられており、混沌とした状況でした。やがて、これら各勢力を制した義実は、文安2年(1445)金山城(鴨川市)に、東条氏を攻めこれを攻略し、白浜上陸より4年余で、安房一国を平定しました。これにより、慶長19年(1614)9月、里見10代・忠義が改易になり安房を退去するまでの170年間、富浦町も里見氏の支配下に置かれることになります。 |
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延徳3年(1491)稲村城(館山市稲)が竣工し里見氏2代・成義の嫡子義通が城主として居城していましたが、その頃その支城としての宮本城も完成し、弟である三男の実堯を城主としました。 代・義通は病のため永正15年(1518)38歳の若さで城内に没してしまいますが、その際嫡子竹若丸はまだ5歳であったため、弟実堯を後見人となし、竹若丸が15歳に成人したときには国政を譲るよう遺言しました。 竹若丸は重臣中里源太郎左衛門、本間八右衛門を守役として宮本城に移りました。後に元服して義豊と名のり成人しましたが、20歳になっても譲国の気配もみられなかったのを怨み、天文2年(1533)7月ひそかに実堯討伐を計画しました。一部の家臣にはこれを諌める者もいましたが、27日夜遂に二百騎をもって稲村城を急襲しました。不意をつかれた実堯は応戦しましたが力尽き敗死してしまいます。 宮本城には宮本宮内、鎌田孫六を城代とし百余名をもってこれを守らせ、義豊自らは稲村城に入り、一応里見家の当主となりましたが、翌天文3年4月上総にいた実堯の長子義堯は父の仇を討つべく挙兵し、小田原の北条氏の加勢を得て、6日早朝両軍は富山町犬掛で遭遇戦となりました。義豊は宮本城や勝山城からの援軍を得て奮戦しましたが遂に破れ稲村城に退き山陰に座し静かに割腹して果てたといわれています。 宮本城は義豊の死とともに廃城となりました。この悲劇の城址は今はむなしく雑草や業林の中に埋もれてはいますが、県道館山・犬掛線の路上より眺める姿は山裾を長くひき、なだらかな曲線を描きながらそびえ立ち山頂の樹間を吹き抜ける風は冷たく、木の間隠れの視界は眺望千里、今は平和な美しい自然の中に兵共が駆け抜けていった数々の古戦場や旧跡が遠望できます。 |
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今も南手城・北手城の名が残っており、標高50メートルの山上の所々に平地があり、周囲には天然の岩石を掘削して作った外廊があります。 山の西腹にあたる要害と称する一区は、城主の屋形(館)があったところで、堀を廻らし、切通しで僅かに通じるている文字どおり要害の地となっています。 東方の聖山は、城主の奥方が常住していたと伝えられ、天正6〜8年(1578〜1580)に起きた里見家内紛の際には、義頼が義弘の実子梅王丸を剃髪出家させ、淳泰と称せしめて幽閉したところでもあります。 城址の付近には桝ケ池という約10メートル四方の池がありますが、どんな干天にも涸れることなくまた深さも計りしれないといわれており、おそらく城有事の際の飲料水として利用するものであったのだと考えられています。 城の完成を喜んだ義弘は早速見分のため、鼠羅紗の陣羽織に金の高蒔の二つ引きの御紋を散らし、黒漆の太刀を佩き、南蛮鎖の小脛当、黄河原毛の馬に乗り、思い思いの陣羽織、小手脛当に着飾った兵士達を従え、大押え(後押え)には黒の陣羽織に丸に三つ引きの紋を白く打ち出した正木大膳が従い佐貫城を出発したとされています。 その行列のきらびやかさは、七重八重咲き乱れたる桜の如く、また竜田川の紅葉かと疑われ、「房総が開けて、かかる華美なる事はよもあるまじ」と領民達は沿道に群がって見物したと記されています。 岡本城が里見の居城としての幕を閉じたのは、義頼の子義康の代とされています。義頼死後、15歳の弱年で里見家を相続した義康は、安房上総を領する里見の居城としては手狭になったと考え、館山に新しい城を築き、天正18年(1590)に館山城に移っていったのでした。 |
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| 2.江戸時代以降 | ||||||
| (1)旧富浦町の成立 | ||||||
村名の由来は各地とも海浜入江を持ち漁業を重要な産業とする関係上、海産の豊かさを祈念する住民の願望を表現し「富浦村」と命名されました。 大正7年房総線富浦駅開通により海水浴客が増大しましたが、同12年の関東大震災では全戸の50%が被害を受けています。その後、昭和8年4月1日に町制を施行し「富浦町」となりました |
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| (2)旧八束村の成立 | ||||||
明治8年に、金尾谷村・白坂村が合併して福沢村となり、同10年には東青木村・西青木村が合併して青木村となり、さらに明治22年には福沢・深名・青木・宮本・大津・居倉・手取・丹生の八ケ村が合併して八束村が成立しました。旧村名を継承した大字を編成、役場をぼ中央の深名に定めました。 村名の由来は、旧八カ村を束ねた意味を含めるとともに、八束穂の八束を取って「八束村」と命名されました。 |
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| (3)新しい富浦町の誕生 | ||||||
その後、昭和44年4月1日、宮本・大津・居倉・手取の四大字を合併、大宮として現在に至っています。 房総半島の南西端に位置し面積52.25ku、三方を山に囲まれ、北は木ノ根連嶺を境に富山町に接し、東は青木山を隔てて三芳村に 、また南は堂山丘陵を境に館山市に接しています。西は東京湾に面し、延長6kmの波静かな海岸線を持っています。 |
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(4)各旧村の沿革 @南無谷村 |
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往昔から、浜集落は漁業を生業としていて、南無谷の最北の集落石小浦には、相州真鶴港伝来の鯛の長縄(延縄)漁法が伝えられています。 また、岡集落では江戸時代から枇杷の営利的栽培が行われ、現在では房州での代表的産地として知られています。 |
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| A豊岡村 | ||||||
中世末、里見氏が安房一帯を所領していた頃は、土地の豪族岡本氏が中央の丘陵上に屋形を構えていましたが、里見七代義弘のとき、岡本氏より譲り受けて養嗣子八代義頼の居城となりました。このため、要害・城井枡ケ池・馬場など城に関する地名が多く残されています。 |
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| B原岡村 | ||||||
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| C多田良村 | ||||||
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| D青木村 | ||||||
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| E深名村 | ||||||
江戸期には勝山藩酒井氏の西領四ケ村の一つで、明和年間の忍足佐内事件のときには、名主与五右衛門は渦中の人でもありました。 |
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| F福沢村 | ||||||
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| G宮本村 | ||||||
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| H大津村 | ||||||
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| I手取村 | ||||||
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| J居倉村 | ||||||
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| K丹生村 | ||||||
丹生とは丹(あか)い土の意味で、辰砂・朱・水銀などを含む土壌をいい、古代以来貴重な資源の一つとされていました。丹生という地名は、大和・伊勢・近江・紀州など十数カ国に在します。富浦町丹生から辰砂や朱、水銀が出るという確実な場所は明らかではありませんが、俗に金気の出ている場所は見られるようです。 |
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| 3.大房岬 | ||||||
嘉永6年(1853)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーの浦賀来航により、海防の危機を痛感した幕府は、江戸湾警備の配置を改め、備前岡山藩と筑後柳川藩に命じた。備前藩は北条(現館山市北条)に陣屋をおき、大房岬に大砲13門を要する台場を構築し、このときから大房は、東京湾防衛の拠点とされてきたのである。 昭和2年になると、富浦の海岸一帯は東京湾要塞地帯となり、首都の守りの重要地帯となった。 「東京湾要塞史」によると、20糎砲2門を有する砲塔2基と探照灯が設置され海上をにらんでいたらしい。『本砲台は主として剣崎(三浦半島)砲台と相まちて、東京湾に向かい進入を企図する敵艦船に対しその行動を防あつし且つ館山湾を援護す』と大房岬砲台の目的が記されている。 その後終戦となり、館山に進駐してきたアメリカ軍により、要塞砲その他は爆破されたとされているが、現在でも所々に弾薬庫や発電所のあとが当時のまま残っている。 |
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〜富浦町史より〜
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