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房州写生思

 千葉そごう美術館の館法に「房総美術館の原風景」の連載をたのまれ準備をしている。私はいつも原風景を視点に加えることは、美術館での研究や展示の基本だといっている。このことを認めてくれた企画なので、これから作家や作品の形成選定で影響した房総のあれこれを描きたい。房総美術館という独自の美術館はないかも知れないので、あくまで房総において形成された、作家や作品に視点をあてたいと思っている。

 短期間の準備であったが資料には1冊の本が書けるくらい、房総の水土には美術の原風景が秘められていると自覚した。こうしたなかに鴨川市太海海岸の江澤栄さんの「西の波切りに東の波太」という言葉があった。十数年前の調査の時に、行き辞引のような栄さんが教えてくれたが、西の波切は三重県志摩郡大王町波切海岸で波太は言うまでもなく鴨川市にある。東西両京の画家たちは、こうして東西の代表的な写生地と呼んだといい、私はこの証言から写生史を考え始めた。

 こうして西洋美術の受容に努めた佐倉藩出身の洋画家浅井忠の、房総における足場の大きさも知ることができた。浅井の五十一年の生涯の特徴の一つに、毎年出かけた三十回ほどの写生旅行があった。この初期の明治十九年十二月に三十歳の浅井は、最初の房州写生旅行をし、結局三年間いつも冬の季節に繰り返した。この間に後に「西の波切に東の波太」といわれた波太(太海)海岸などを探訪し・鉛筆・水彩・油彩のスケッチやデビュー作まで結晶させている。

 特に「房総写生思考」では浅井の「波太村」という鉛筆スケッチは、波太海岸の写生地形成史の始源を実証している。明治二十一年の遺産で、現在千葉県立美術館に収蔵されており文化史上でも貴重である。こうした歴史が後の本格的な写生地形成の基礎になったが「東の波太」と呼ばれるようになったのは大正初期からである。大正二年浅井人脈につらなる太平洋画会の、石川寅治と中川八郎の二人が波太海岸で写生したことが発端になった。

 具体的には石川が波太海岸の「港の午後」という油彩の作品を、第七回文展に出品し二等賞を得て、一躍波太海岸が洋画家の注目を集めたという。当時の波太海岸にはまだ旅館がなかったので、石川・中川の二人は造船所を経営していた江澤家を拠点にした。民宿的な滞在で写生を続けたわけであるが,「港の午後」からは洋画家の来訪が次第に多くなった。造船所はこうして旅館業に転ずることになり、現在の海上ホテル江澤館へと続き画家の宿と呼ばれてきた。

「西の波切に東の波太」という言葉を教えてくれた江澤栄さんは、江澤館の先代おかみさんで、房州写生史の語り部である。こうして洋画家のメッカになった波太海岸であるが、浅井に手ほどきを受けた安井曽太郎の油彩画「外房風景」〔大原美術館蔵〕は、江澤館の一室から描いた作品で写生史を象徴している。                         〔平成五年十月〕
房総遺産 普通の人達の文化   高橋在久

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